迂闊にも程がある

迂闊なおばさんの悲喜こもごも

ブログのヨガ的効能に気付く

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 

仕事に行く度にモヤモヤする出来事に行き当たる。

ずっとそんなモヤモヤを抱えたまま仕事している。

モヤモヤを抱える事に慣れっこになってしまっている自分がいるにはいるのだけど、ここしばらく、自分のこころの器のキャパシティを超える出来事が続いた。

その出来事そのものもショックだったけど、その事を私以外の誰も特に気にも留めていないという現実の方がきつかった。

事なかれ主義でいる方が生きやすいのだろう。

私が変わっていてめんどくさいヤツなのかも知れない。

 

ここ数日、夫に出来事や気持ちを話している内に、自分の今後の仕事上の立ち居振る舞い方を再確認できた。

 

 

退職するXデーまで目の前の人に集中する事。

雑音に捕われない。

いたってシンプルな事。

その本筋は今までと変わらない。変わらないけれど時々長いものに巻かれろ的な圧に屈しそうになることもある。

屈したらある意味協調できるのかも知れないけど私には無理。

その類の協調は無理なんです。

 

同僚や上司の顔色を見てする仕事はつまらない。

目の前にいる人に向けて仕事がしたい。

同僚や上司に褒めてもらうための仕事をする人もいるけど、それ、見る人が見たらわかりますから。高齢者の皆さんは伊達に年を重ねておられません。

言い方は悪いけどボケた振りしてお見通し。

でもね、そんな要領のいい人の方が上司に好かれて(重宝されて?)いいポジションにつけるのも現実。

「要領がいい」というのは社会生活においては一種の才能なのだ。

私はその才能が皆無なので上司に疎まれていると思う。世渡りの実力ゼロである。

上司に嫌われたからといって仕事は辞めないけど、利用者さんに「あの人だけは嫌」と烙印を押された時はあっさりと身を引きます。

 

ウダウダ言ったところで結論はいつも同じ。

向かい合う先を間違えるなって事。

この軸は守る価値はある。

 

パートの私だけど、目の前の人たちからすればそんなの関係ないし知った事じゃない。

生身の人たちを相手にする仕事なんだもの、一歩間違えればおおごとになるのだから。

 

 

こうやってカタカタカタとキーボードを叩いていると、

私は何て饒舌になれるんだろう 笑。

いつも右下にカウントされる文字数を見て驚いてしまう。

普段はなかなか口に出して言えない事がカタカタカタカタと饒舌になる。

小気味良いリズムに乗って大集中してタイピングしている内に、こんがらがっていた所思がほぐれていく。散らかっていた気持ちが調っていく。 

自分に不必要なものは吐き出し、必要なものを取り入れる、呼吸の様に。

まさに今書きながらヨガ的だなと気付く。

 

と、昨夜ここまで書いて抗しがたい睡魔に負けた。

こういうのは日を跨ぐと勢いがなくなると思うがまだ書く 笑。

 

今回はたまたま滅多に書かない職業上のアレだったけど、例えば父との事だってそう。

先日の父が転倒して大雨の日に病院に行った日も、私にブログという存在があって良かったと心底思った。

根本的な解決にはならないけど、行き先を諦めかけていた悶々とした思いの落としどころとなっている事は間違いない。

 

私は対面で考えや思いを言語化するのが苦手だ。

考え過ぎてしまって言葉が出なかったり、逆に気持ちが昂り過ぎて思いとは裏腹な上滑りな言葉を連射してしまったり。

一見落ち着いて見られるけど、こころと脳はいつもてんてこまい 笑。

 

ブログは自分のペースで言葉を編み出せる。

時々自分自身の心象にかき乱されて恐ろしく時間がかかる事もあるし、キーボードに向かうもののひと言もカタカタ出来ない日もあるので、〆切がない自由度の高さもポイント高し。

 

それにブログはアウトプットだけではなくインプット出来る良さもある。

現実の限られた関係性では得られない知識や感性に出会えるし、ささやかだけどちょっとしたやりとりにも癒される。

完全なひとり舞台でない事もモチベーションを持ち上げてくれていると思う。

 

日々の記録を残す事と、MacユーザーからWindowsユーザーになって、Windowsの扱いに慣れるために始めたブログだったけれど、書いている途中で「ブログの効能」みたいになってしまっているのが実に私らしい(自分で言うな)。

まぁそれもええやん。

 

だって、ブログを書くことは「仕事」ではないのだから。